銀 龍 物 語 Epi.21 日本語教師 久美子先生
化学部
クライアントグループリーダ
李 宏軒
中学生のころ、魯迅の『藤野先生』(中国語原文)を読みました。『上野の桜が満開のころは、眺めはいかにも紅の薄雲のようではあったが、』(日本語訳)という一文が印象的だったことを覚えています。
そのときは、その作者の藤野先生に対する感情をはっきりとは理解できませんでしたが、その何年かあとに、わたしにとって忘れがたい日本人の先生にお会いすることになりました。
大学生のとき、わたしの専攻学科のカリキュラムでは、1年次に日本語のみを専門的に学習することになっていました。その学習の半分は文法、半分は口語でした。その1年の間に、日本語の知識ゼロから日本語試験1級のレベルに到達しなければならず、日本語学習のプレッシャーがものすごく高い情況でした。
文法の授業の先生はとくに厳しく、授業中、わたしたちは緊張のあまり呼吸をするのを忘れるほどでしたが、幸運にも、わたしたちは、可愛く尊敬できる日本語の口語の先生、もっとも優れた先生、久美子先生にお会いできました。
今にいたるまで、わたしは、誠実で暖かい久美子先生の笑顔を覚えており、彼女の笑顔は、はじめてお会いしたときにも見ず知らずの人とは感じさせず、よく知った人に再会したように感じるられるものでした。
久美子先生は、中国語をほぼしゃべれず聞き取れなかったのですが、ほかの先生のように教科書どおりに授業を進めるということはしませんでした。彼女は授業中、大部分の時間を自ら準備された内容を教えていました。
例えば、果物、野菜が手書きされた自作のカードを用いて単語を教えてくれたり、日本語と身振りで物語を伝えたり、日本語の歌を教えてくれたりしました。日本語の歌については、その歌詞の意味がわからないことがしばしばでしたが。
その口語の授業では、ときどき歓声があがることがありました。そのような教え方だったので、久美子先生は授業の準備に相当な労力がかかっていたのだと思います。私たちの方は気楽に学習することができ、日本語を使って交流することが自然で楽しい事であると徐々に感じてきていました。
また、わたしたちの日本語の発音が標準的になるように、久美子先生は、毎日、休憩時間を利用して発音練習につきあってくれるとともに、ひとりひとりの発音を直してくれました。久美子先生のまじめで責任感のある態度は、わたしたちに尊敬の念をいだかせるとともに、感動をもたらしていました。
その1年の間に、久美子先生の指導のもと、わたしたちは日本料理をつくったり、和服を着たり、日本の伝統的な物語を演じたり、学校の日本文化祭のコンテストに参加したりして、日本の文化に対して理解を深めていきました。
久美子先生は、日本料理を教えるときにはやさしい母親のようであり、和服の着付けを教えるときには忍耐強い友人のようであり、日本の物語の劇を見るときは天真爛漫な子供のようであり、わたしたちを率いてコンテストに参加するときにはチームのハートでした。
愉快な雰囲気のもと、わたしたちの日本語の口語レベルは徐々に向上していき、久美子先生との気持ちのつながりがますます深くなっていきました。
あの1年は、わたしの大学時代のもっとも楽しい日々でしたが、そのような日々というのはいつもはかなく短いものです。
その1年のあと、久美子先生は帰国しなければなりませんでした。まもなくお別れという頃、何人かの同級生が久美子先生からの小旅行のお誘いをいただきました。わたしもそのお誘いをいただいて感激したのですが、少しだけ思いがけないことがありました。
それは、久美子先生が小旅行の目的地に選んでいたのは、特に人気のある観光地ではない場所、『満州里』だったことです。わたしたちのその質問に久美子先生は次のことを伝えました。
久美子先生の父親は、戦争によりシベリアに長年抑留され、幸運にも生還できましたが、その際の苦労はその父親および家族にとってはわすれがたいものでした。彼女がシベリアに行く機会は得られそうにもなく、『満州里』は彼女が行くことができる、シベリアにもっとも近い場所でした。
その場所で、過去の苦難を追想し、今日の平和と幸せに感謝することを希望していました。そのために、彼女は、中国に来て日本語を教えました。また、日本人と中国人とが親しい友人になるように日本語という橋をかけることも希望していました。
その小旅行のあと、長い間、久美子先生にお会いしていません。しかし、わたしは、先生の気持ちをいつも胸のなかに置いてあります。
そして今、わたしは、教えていただいた日本語を仕事で毎日使っています。
久美子先生、ご安心を~!!
以上
(銀龍物語Epi.21 おしまい)