銀 龍 物 語 Epi.11 母

電気部
王立傑
                        

 中国では、みなが、お母さんがいる子供は最も幸せだと言います。このことについて、ちかごろ、改めて深く感じています。

 少し前に、わたしは休暇をとって自宅で司法試験の直前準備をしていましたが、ちょうどそのとき夫が出張でした。母は、わたしにご飯を作る時間がないことを知り、わたしの食べるご飯がないことを心配し、自宅までご飯を作りに必ず行くからねと言いました。

 わたしと母は北京に住んでいますが、母が住んでいるところからわたしの自宅まで1時間ちかくかかり、さらに母は毎日、孫(わたしの弟の子供)を学校に送り迎えしなければならない状況です。わざわざご飯を作りに来てもらったら母が大変すぎるし、わたしはもう子供でもなく自分のことは自分でできるので、ご飯だけ作りに来ることはしなくて大丈夫であることを強く伝えました。

 しかし、母は、毎日、早朝に孫を学校に送った後、電車に乗ってわたしの自宅までご飯を作りに来てくれました。ご飯を作り終えた後、午後、孫を迎えに行くために帰っていきます。このことは、わたしに幸せを感じさせてくれるとともに、母に申し訳ないという気持ちにもなりました。

 わたしが子供のころ、生活に余裕があまりなかったため、母はいつも節約をしていました。わたしの記憶のなかでは、母は自身のために買い物をしたことはほとんどありません。わたしと弟を育てるために、日夜苦労していたと思うのですが、これまでに一度も母からの不平不満を聞いたことがありませんでした。また、わたしは子供のころ、少し体が弱かったため、普通より多くの面倒を母にみてもらっていたと思います。

 わたしは5歳とき、転んで右肩を骨折したのですが、わたしが住んでいた地域の医療水準には限界があり、手術が難しく、骨折したところがくっついた後に腕を伸ばすことができなくなっている可能性がありました。このため、母は苦労をいとわずに多くの人に聞いたりして、わたしに手術をしてくれる当時の名医を探し出しました。手術の後、母はわたしの腕の回復について心配し、わたしは腕を伸ばすために毎日「定量おもり」(写真の木製棒はかりにぶら下がっている分銅)を右手で持たされました。

 その手術の後には右肩に痕が残り、今でもよく見れば気づくのですが、わたしはこれまで一度もそれを気にしたことはありません。もし手術をしていなければ腕を自由に動かすことができず、いろいろな活動に不便が生じていたはずだからです。このことを考えるとき、母がわたしにしてくれたすべてのことについて、いつも心の底から感謝します。わたしにとってその手術の痕には、母のわたしに対する無尽の愛を含んでいます。

 母は小さい頃に勉強する機会にめぐまれなかったため、わたしと弟がたくさんの本を読むことを特に希望していました。このため、わたしと弟に必要な学習書であれば、母は一切の躊躇なく買ってきました。大学に入ったとき、わたしは、仕事に就いた後、必ず、母に苦労させず、母に穏やかな生活をおくってもらえるようにしようと決意しました。しかし、大学卒業後、仕事の場所が実家から遠く、結婚後には夫の海外赴任についていき、母との団らんは年に数日しかありませんでした。

 中国に帰国することを決めた後、母が一番喜び、いつでもわたしに会えることを喜んでいるようでしたが、帰国後、わたしは仕事のために早朝に家を出て夜遅く帰るという生活になり、毎週母に会いに行くことはできていません。でも、逆に、母はわたしに会いたいとき、わざわざ電車に乗ってわたしに会いに来て、さらに、わたしが好きな物、例えば餃子などを持ってきて冷凍庫に入れてくれます。

 今回、母は、わたしが安心して司法試験の準備ができるよう、試験が終わるまで、苦労をいとわずに毎日毎日自宅に来てご飯を作ってくれました。大人になっても母に苦労をかけてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。ある友人が母を亡くしたとき、わたしに次のように伝えたことを記憶しています。

 「母が健在のときには母と一緒にいる時間がなく、すごく後悔している。そのときは、忙しい時間が過ぎてから母にゆっくり付き合うようにしても遅くないと思っていたけど、バタバタ忙しい時間にはまるで終わりがなく、母が亡くなるまで続いてしまった」

 わたしの母はもうすぐ70歳。元気ですが、母と別れなければならないその日はわたしにも必ず来るのだと思います。わたしはいくつかの事柄を放棄して、母が健在のうちに時間をつくって母に付き添い、母に美味しい料理を作り、一緒に旅などをしなければと考えています。
                                 以上
                    (銀龍物語Epi.11  おしまい)