銀 龍 物 語 Epi.07 大学時代の日本語コーナー
品質管理部
弁理士 厳星鉄
中国弁理士の厳 星鉄(ゲン セイテツ)と申します。現在、銀龍の品質管理部において、OAのSIPO提出前の品質検査の仕事を担当しています。2008年に銀龍に入所する前に、北京の国営の特許事務所の2社で専利代理の経験を積みました。私がこの業界に入ったのが2002年なので、銀龍で働く期間が最も長くなっています。
仕事のことでよく代理人と激しい議論を交わしたりしますので、私を怖がっている代理人がいるかも知れませんが、「笑うとすごく優しそうに見え、ハートはピュアなタイプだ」と同僚からよく言われます。
特許業界に入る前、日系企業にて技術の仕事をしつつ、ときどき通訳の仕事もしていました。そのころ、時間があるとき(夜と週末)、翻訳会社からの翻訳の仕事のアルバイトをしていました。
その翻訳会社は、北京の特許事務所から特許関連書類の日中・中日の翻訳のお仕事の依頼を受けており、私は、幸運にもその翻訳のお仕事を通じて特許というものに触れ、この特許業界の前途は明るいに違いないと感じました。
翻訳会社を通じて特許というものに触れてから少し経った2002年ごろ、北京の特許事務所が日本語ができる特許技術者を募集しており、試しに受けてみようと思い応募しました。思いがけず合格してしまい、今にいたります。最近、時間が経つのがすごく速く感じましたが、そのときからもう10数年が経ちました。
私は、中学から日本語の勉強を開始しました。私が通った中学には英語の教師がおらず、日本語の教師しかいませんでした。当時(1980年代の初めごろ)、中学生であった私は日本語に対して特に興味を持っておらず、大学受験のために必要なので勉強していました。中国全体から見れば日本語を学ぶ学生は非常に少なく、私たちの中学校が特殊だっただけであり、現在のような日本語熱はありませんでした。
吉林大学に入学して半導体を専攻しましたが、理系の学生で日本語を選択したのは私を含めて3名だけでした。英語を選択した学生は数百人いたと思います。日本語を選択したその3名の学生は全員が男性であり、先生も男性でした。さらに、学生は3人しかいないのに授業をよく休みました。あるとき、私だけが授業に出席した際、先生は「今日はあなたも休みにしようか」とあっさり言い、休校になりました。
記憶によれば、大学で使用していた教科書は、東京大学から出版された「日本語」という本であり、それはA3より少しサイズが小さく、あまり厚くなく、見た目は高校で学んだ日本語よりも内容が簡単な様なものでした。このため、大学1年、2年のとき、日本語をほとんど勉強せず、高校のときの日本語の蓄積によって試験をパスしました。大学2年の期末試験では70点でしたが、点数を気にもかけませんでした。理系の学生は2年までで外国語の授業が終わりなので、3年からその休校の多い日本語の授業はなくなりました。
私に日本語に興味を持たせることになったのは、3年の前期のことです。当時、私たちの大学には日本語コーナーがあり、毎週水曜日の夜、活動が行われていました。ある水曜日の夜、興味半分で活動に参加してみました。10数人が参加し、4つくらいのグループに分かれており、大部分は専門が日本語の学生であり、上級生もいれば下級生もいました。
みな日本語を使って交流し、私はグループに混じって何を話しているのかを聞き入りました。かれらは生活上のこまごまとした事について話をしていましたが、日本語のしゃべりがすごく上手な人もいました。ふと、隣に立っていた眼鏡をかけた女学生が私に声をかけました。私はというと、しゃべりたい内容が頭に浮かんではいるのですが、それが口から日本語で出てくることはなく、ばつが悪いというか、なんとももどかしい状況でした。
その後、私は日本語コーナーに参加することはありませんでしたが、日本語コーナーへの1回の参加で日本語が好きになりました。大学3年以降、日本語の授業はなくなりましたが、日本語を一人で毎日勉強するようになり、大学の図書館、景色のよい南湖公園で勉強していました。夏休み、冬休みの際には、学校から日本語の書籍を借りて実家に持ち帰ったりもしていました。
今から考えると、私の日本語の基礎はその大学3年、4年のときの自習により完成したのだと思います。もしあのときに日本語コーナーに参加していなかったら、もしあのときに眼鏡をかけた女学生が私に声をかけていなかったら、今の仕事にもついていなかっただろう。
(銀龍物語Epi.07 おしまい)