銀 龍 物 語 Epi.03 桜咲け
東京ブランチ
李 平
2年前の北京への里帰りのときのことです。友人と一緒に夕食をとってからの帰り道、実家の最寄り駅の地下鉄出口から何メートルか歩いたところで後ろから母親に声を掛けられました。私が「迎えに来たのになぜ後ろにいたの?」と聞くと、「あなたが道に迷っていないかどうか後ろで見ていたのよ、このあたりは最近工事しているから…」と母は答えました。いくら日本に長く住んでいて故郷の中国への帰国が久しぶりであっても、ここは実家への帰り道だし、たとえ道に迷っても駅から実家までの距離は500メートルしかないのです。やはり母親の心の中では私がいくつになっても未だに不器用な子供であることに変わらないのだとあらためて感じさせられました。
私が不器用であるということについては、父親も母親と同じように考えています。そのため、例えば空港のターンテーブルで私が自分の荷物が直ぐにわかるようにいつも私のトランクに何か変なリボンや紐などを付けてくれるのです。私はそれが恥ずかしくいつも空港でトランクを預ける前にそれを解いて捨ててしまいます。
一番困ったのは何年か前の北京出張のときです。夜に到着の便で北京に到着されるクライアントを空港まで迎えに行く際、何と娘の私が夜遅く一人で空港に行くことを心配して、父親が私と一緒に空港まで行こうとしたのです。私は、最初は冗談かと思い母親に話したところ、二人とも本気で考えていたのです。もし80代のお父さんと一緒に空港でクライアントに会ったら、私のイメージがどうなっていたかと私はそのとき本当に驚いたのでした。
しかし、このような私が年老いた両親を一番心配させたのは、私が40代の頃に建築関連の仕事を辞めて特許という業界に入り、中国の弁理士試験に何回も不合格だったことだったと思います。弁理士試験の度に私は日本から北京の実家に帰って、親を騒がせ、2日間の試験を終え、実家で親とのんびりとした時間を過ごすこともできず、小さい期待と大きな不安ばかりを両親に残してとんぼ返りで日本に戻ってしまうのでした。それは親にも私にも辛いことでした。
親を心配させたくなくて受験場所を北京以外の地方に移して、親に知らせることなくこっそりと試験を受けて日本に戻ることを考えたこともありましたが、そこまで考えるのはばかばかしいことだと思いこれを実行に移すことはありませんでした。飛行機に乗って中国に受験しに行く私の大騒ぎを止めたのは数年前の中国専利法改正の頃です。この法改正がちょうどよい口実となったからでした。私はこの改正以後、弁理士の資格が無くても、他の面でクライアントの出願のサーポートをすることができると自分に言い聞かせて窓口の仕事に専念しました。
ところが、昨年の初め頃に中国商標代理人試験が十何年振りに再開されるとの話があり、私は商標の仕事もしていたので、自分がどの位のレベルにあるのかを確かめたいと思ってこの試験を受験することを決めました。他にも理由があります。昨年の春から高校三年生になった息子が大学受験を考え初めていたので、息子には何も言いませんでしたが、「こんな歳の親でもチャレンジ精神を持って頑張っているよ」ということを息子に示したいと思ったからでした。息子の大学の受験勉強の刺激になることを期待したのでした。国の政策により試験で合格点をとっても正式な商標代理人資格証明書が発行されませんでしたが、私は3科目の試験に全て合格することができました。その勢いと同僚の勧めで私は弁理士試験の勉強を再開しました。毎晩、夜遅くまで自宅のダイニングテーブルで過去問を解いていました。するといつしか息子が勉強の道具を持って自分の部屋から出てきて、ダイニングテーブルの向こうに座るようになりました。
こうして弁理士試験の勉強をがんばったのですが、私の弁理士試験の合格を一番喜んでくれているのは、やはり故郷にいる両親です。母親から「あなたの試験の結果を何回も聞こうと思ったけど、怖いから聞かなかった」との話を後で聞いて、私は涙が出そうになりました。
先日、息子の大学のセンター試験がありました。私は試験から帰ってきた息子の顔色をこっそりと窺って息子は試験が上手くできたのだろうかと考えていたとき、自分の両親も試験から帰った私の顔を心配しながら見ていたに違いがないとふと思いました。
異国の地、日本に住んでから20年が過ぎました。里帰りは年1回、多くても2回くらいです。両親はもう80歳を超えているのですが、私が日本へ戻るとき、以前と同じように毎回空港まで変わることなく見送りに来てくれます。その時の空港での別れがもっと辛いとわかっていても、最後まで私と一緒にいたいという親の気持ちが痛いほど私には伝わってきます。私は今年の4月から3ヶ月間の北京出張の機会があります。北京に戻ったら、たくさん親孝行をしたいと思っており、今いろいろな計画を立てているところです。
その時、まだ一度も見たことのない、実家の隣にある玉淵譚公園の桜※が咲いていてくれれば、それは私の学生時代にはまだ苗木であり花を咲かせるほど大きくはなかったのですが、きっと両親と私にとって最高の里帰りになるだろうと今から楽しみにしています。
※玉淵譚公園の桜
玉淵潭公園が桜の名所になったのは、1972年に国交正常化のために北京を訪れた田中角栄首相が中国に贈った桜の苗木1000株のうち、180株を同公園が育てることになったことがきっかけです。その後、中国国内の品種も加えられて計2000株の桜が咲く名所になりました。
北京における桜の最大の名所であり、毎年、桜の季節には日中の交流活動が行われており、また、北京在住の多くの日本人が花見に訪れています。節目の年には、政府関係者による記念行事も行われています。
(銀龍物語Epi.03 おしまい)